前回は受験勉強のところまで書きましたが、今回はクソ高校生活のことをば。
受験勉強で疲弊した私は高校生活に希望を持つことが出来ませんでした。
そして、そのまま高校入学。
まず、一番にぶつかった壁は友達作り。
小中は幼馴染で固まっていたので、新たな友達の作り方が分かりませんでした。
とりあえず話しても、なんか通じない、しっくりこない。
周りはどんどん仲良くなって楽しそうなのに、私は独り。
いわゆるぼっち生活の始まりでした。
まぁ、ぼっちでも、みんな頭いいのでイジメとかはありませんでした。
これは救いです。
ただ、徹底的に放置プレーでしたけどね。
勉強も大変でした。最底辺で入学した私は、ついていくのがかなり厳しい状態でした。
しかも、5月病に罹患し、1学期の中間考査は全く勉強する気が起きず、結果はボロボロ・・・。
友達いない、勉強できない、何も無い、どんどん自信喪失していきました。自分の価値って何?
そんな状態でも何とか1学期を終え、夏休みに入りました。
夏休み中は遅れた勉強を取り戻そうと、結構勉強した覚えがあります。
その結果、2学期の試験では中位の成績まで上げることに成功しました。
その頃、ネットの友人の勧めで鶴見済の「人格改造マニュアル」を読んでいました。
その中にエスタロンモカが出てきて、勉強で眠くならない為にはコレだ!とエスモカを飲み始めました。
エスモカとの長い付き合いが始まりました。
そんな感じで1年の頃は過ごしていました。
2年生になるとクラス替えがあり、なんとか一緒に行動する友達ができました。
っても上辺だけですけどね(死笑
2年になると一気に勉強が難しくなりました。
勉強しないといけない、ついていけない、疲れた、もう死んでしまいたい・・・。
そんな心理状態だったと思います。
友達いなくて、私には何もないんだから、せめて勉強ぐらいは出来なきゃ。
成績を上げることで自分の価値を見出そうとしていたのだと思います。
しかし、それは辛いことでした。
この時から本格的にリストカットが始まりました。
やらなきゃなんねーことが山積みなのに、それをする気力がない、そんな自分が腹立たしい。
そんな心境だったかな。
夜な夜な、カミソリで切っていました。
手首はあからさまだし、目立つので、肘の内側あたりをシッパシッパ切っていました。
傷口が浅かったので、傷跡は残りませんでしたが、それでも多少流血するぐらいは切っていました。
傷のある周辺はサポーターで覆って隠していましたが、多分一部の人にはバレていたと思いますw
一番リスカ(アムカ)が酷かったのが高2だったと記憶しています。
3年になると、エスカレーターで大学に上がるため、勉強はよりハードになっていきました。
いくら文系コースに進み苦手な理系とはオサラバしたとはいえ、結構キツかったです。
この時はもうネット廃人で、ネットを使ってスマートドラッグの存在を知り個人輸入していました。
試験前はスマドラ飲んで勉強していました。
そのお陰?か成績は伸び、クラスで10番内に入っていました。
スマドラで強制的にアッパーになり勉強する→試験期間はハイテンション→試験休みは死ぬ
今思うと、この時から躁鬱の土台は出来上がっていたように思います。
高校の頃はネットにどっぷりハマっていました。
学校では超絶非リアなんだから、ネットぐらいは充実していていいでしょうw
某2のつく掲示板で瀉血という自傷が取り上げられているのを発見しました。
注射針で静脈狙って刺せば、僅かな傷から大量の血が出せる。
その板の住人は殆どが重い貧血状態でした。貧血が酷くて入院したという書き込みもチラホラ見かけました。
昔から入院願望の強かった私jは、コレだ!とすぐに瀉血に手を染めました。
何故入院したかったかって?そりゃ、入院すれば学校とか家庭から切り離されて、何もしないで寝ていられるから。そんなクソ理由です。
瀉血は一ヶ月に400mlぐらいでジワジワとヘモグロビン値を落としていきました。
入院するのは付属校推薦が終わって進路が決定した後の3学期。そう決めて、計画的に血を抜いていました。
12月。付属校推薦の結果が決まりました。
私は法学部法律学科に決定しました。
一応、大学の中で最高峰と言われる法学部に決まって心底嬉しかったのを覚えています。
っても、一番行きたかったのは文学部社会学科だったんですけどねwこちらは倍率の関係で無理でしたw
進路が決定すると、私の心はどんどん入院に傾いていきました。
そして、2月上旬~17日間の入院生活を送ることに成功しました。
因みに入院時のヘモグロビン値は4.5でした。
入院生活はメシは微妙でしたが、ずっと寝ながら音楽聴いていていいし、最高でした。
退院後は自宅療養、そして卒業式。
クソ高校生活が終わりました。
どうだい?酷いだろう?
次回は大学生活編ね。ではー。
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